2014年10月6日(月曜日)[ トピックス ]

「核も戦争もない平和な21世紀に」横浜市非核兵器平和都市宣言市民のつどい

1387-2 「横浜市非核兵器平和都市宣言市民のつどい」が10月4日、かながわ県民センターで開催されました。

1984年10月2日に横浜市会が決議した「非核宣言」を実効あるものにと願い、横浜市内各大学やYWCA・アムネスティの関係者の呼びかけで開催され、今年で11回目、非核宣言から30年、ビキニ被曝からは60年でもあります。福島原発事故と重ね合わせて原発も核兵器もない平和な21世紀を願い開催されました。

高校生平和大使の活動について事務局の飯川賢さんから「ビリョクだけどムリョクじゃない」を合言葉に100万を超える署名を国連に提出したこと、国連欧州本部には常設の原爆資料展示スペースが設けられ、国連軍縮会議に民間人として初めて出席し発言、長崎平和宣言の中でも扱われるなど活動が高く評価され大きな成果をあげていることが紹介されました。

長崎で15歳の時に被爆した柿本直人さんは当時の状況を、「学徒動員先の三菱兵器長崎製作所の工場で作業中に被曝しました。崩壊した工場から自力で這い出して奇跡的に助かりましたが、何度も原因不明の病や心臓発作に襲われました。核廃絶の道筋が見えないままでは死ねません」と話しました。

ビキニ水爆実験の後遺症の取材を続ける島田興生さんは「ビキニを見れば福島が見える」と題して映像と講演を行いました。

「1954年3月1日のビキニ水爆実験は広島型の1000倍の威力があります。島を吹き飛ばし、世界中に放射能をばらまきました。3年3か月後に米政府が『安全宣言』をしたので島民は帰島したのですが、子どもたちは甲状腺障害で発育が止まり、白血病で亡くなる子も。女性は流産や死産、精神障害の新生児が生まれるなど、女性や子どもに後遺症は集中しました。米政府は、検査だけで治療は行いませんでした。安全宣言はまやかしでした。その後島民は抗議の脱出を行い、今も避難生活です。ふるさとに帰りたいけど帰れない、放射能が怖いと言います」

福島からの避難者の鹿目久美さんは「福島原発から60キロ離れたところで暮らしていました。子どもに病気になってほしくない一心で、夫と離ればなれだが少しでも線量の少ないところにと相模原に避難してきました。今は福島の子どもたちと親を呼んで保養させる“母ちゃんず”の活動をしています。福島の住民は不安を口にすることも、誰かに相談することもできず、苦しい思いをしています。福島に残るか、避難するか、一人ひとり選択できるよう生きた支援ができたら」と訴えました。

最後に、アムネスティ・インターナショナル横浜グループの藤田正さんから、核による被害を繰り返さず、戦争のない世界のために原発を再稼働させず廃炉に、集団的自衛権行使容認の閣議決定の撤回など「非核宣言都市横浜への提言」を提案し、参加者で確認しました。

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