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(第4回) 「安保繁栄」論の破たん

 米国のマクガヴァン上院議員の1964年に曰く、「アメリカがスポンサーとなった学校給食プログラムによって児童がミルクとパンを好むようになり、日本が農産物の最大の顧客になった」。

(第3回) 高度成長する「死の商人」 を読む

 1952年に再開された給食で日本がパン食と脱脂粉乳を押し付けられたことの延長上に、安保条約改定は、あらゆる農水産物を押しつけられる日本の将来を決定づけた。

余った小麦粉と脱脂粉乳の給食 1963年

 朝鮮戦争の休戦後、米国内の農産物は、兵食としての行き場を失っていた。欧州は復興が進んで自給率を上げていく。輸出と似て、輸入品もまた、米国の戦況に影響された。

 改定された安保条約の経済協力条項に拘束される日本で1961年に制定された「農業基本法」の狙いは、大豆や小麦、ナタネ、飼料作物などの国内生産を輸入に置き換えることにあった。

同年、「自由化促進計画」が策定され、続いて、そば、粗糖、バナナ、レモン、グレープフルーツ、木材など、数年で9割以上が輸入自由化された。

1960年当時の穀物自給率は82%だったのに、2018年現在28%しかない日本は、この時から準備された。輸入なしには飢餓に苦しむ。安全保障条約が、食の安全保障を脅かすとは、なんと皮肉だろう。

 けれど、山林の荒廃や農山漁村の疲弊を尻目に、日本財界は、それさえも利用して儲けた。生産から締め出された農山漁村の若者は、職を求めて都市に流入する。中卒・高卒の地方出身者は、安価な労働力として活用された。

「金のたまご」の低賃金そして長時間過密労働は、重層的下請け構造のなかの大企業経営者と大株主による収奪的な搾取、いわゆる「下請けいじめ」を可能にする。一方に労働者の貧困、もう一方に富の蓄積。

 部分的に矛盾を解決したのは、労働運動、公害反対運動、反戦運動、学生運動の高揚と期待を背景に躍進した革新自治体だった。独自の環境規制や老人医療無料化などの福祉政策が推進されると、自民党政府も譲歩するほかなかった。田中内閣は1973年を「福祉元年」と位置付ける。

 米国にも、冷戦下で資本主義経済体制の優位性を示すため、「豊かな社会」「偉大な社会」「貧困との戦い」などと称して、社会福祉、医療、教育、公営住宅・家賃補助、公的扶助への支出をやむなく認める傾向はあった。体制維持のための最低限のコストである。

 ところが1973年の暮れ第4次中東戦争が勃発し、オイルショックで世界は大きく混乱する。対米従属の輸出主導型の日本では、円高不況が継続した。そこへ79年に第2次オイルショックが決定的になる。安保体制は「福祉2年」を連れてこなかった。

(第2部1回) 舵を切る福祉国家 を読む