2009年11月15日(日曜日)[ コラム「しじゅう」 ]

「どう考えてみても人間という存在の中で顔くらいがそれほど大きな比重を占めたりするはずがない。人間の重さは、あくまでもその仕事の内容によって秤られるべきであり、それは大脳皮質には関係しえても顔などが口を挟む余地のない世界であるはずだ」 これは安部公房の小説「他人の顔」の一節である。

主人公の科学者が実験の失敗からケロイド状になった自らの顔を自己弁護しているくだりだ。しかし彼の顔を見て子供は泣き、人は目を背け、妻はセックスを拒否する。顔は人間同志の通路であることを思い知らされる……。

顔を辞書で引くと、名誉・対面・面目とも書いてある。

昔から「顔が立つ」「会わす顔がない」「顔が潰れる」等々顔にちなんだ表現は多い。

また、古代ギリシャのアリストテレスは、「人間にだけ顔がある。鳥の顔とか牛の顔とは言わない」といったそうだ。しかし、ペットの犬や猫には表情があり、アリストテレス先生の言に全面的に賛成するわけにはいかない面もある。

しかし、人間の顔はその人間を語るにはもっとも格好な要素であることに異論は挟みにくい。

鳩山首相の顔は、首相になる前は丸顔で目が大きく全体として優しそうな印象であった。

ところが首相になってみると、いつも身構えながら周囲と対峙し続けているためか、顔つきが変化してきた。

善し悪しの境界を少し曖昧にしたとしても「顔が売れてきた」ので「顔を利かす」ことができるようになり、その分の変化だったのだろうか 鳩山さんと同時期に市長になった我が林市長の顔はどうだろうか。

鳩山さんと比べると近くにいる割に「顔出し」が少ないようだが、思い出すのは中田前市長だ。

七年前の就任当時は、私たち職員の顔を「踏みつけにし」それによってマスコミや市民の関心を集めて「顔を売り」その後もこの手法に磨きをかけ、市長を2期も務めたのでした。

「横浜市従」第1238号(2009年11月15日付)より

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