3・8国際女性デー 平和と自由と平等と 権利のために連帯する日

敗戦後ようやく女性にも参政権が与えられ投票することができるようになった(写真は1953年)

 俳優や歌手、アスリートら著名人による「happy international women’s day」のハッシュタグを付けたSNSの発信。ハイブランドによるPRやキャンペーン。日本でも「国際女性デー」(「婦人デー」)が広く知られるようになりました。婦人デーを日本で最初に開催した「赤瀾会」の結成、すなわち国際主義に立つ日本の女性労働者運動の始まりから今年はちょうど100年です。

 「赤瀾会」の結成は、治安警察法で女性が政党などの政治団体に加入することや政治課題をテーマとする集会を主催、参加することは禁じられていた(女子の政治結社加入禁止の規定)時代に産声を上げたジェンダー平等を求める運動の萌芽でした。

赤瀾会結成100年

 1921年4月、「私達は私達の兄弟姉妹を窮乏と無知と隷属とに沈淪せしめたる一切の圧制に対して、断乎として宣戦を布告するものであります」との綱領を掲げて「赤瀾会」が結成されました。

 同年5月1日のメーデーにRW(red waves)の旗を靡かせて参加。当時、検束されることもある街頭デモに女性が参加することなど考えられませんでした。実際、赤瀾会のメーデー参加者全員が検束され、翌々日の新聞各社の社会面のトップ記事を飾っています。

 当時の様子を会員の一人、山川菊栄は著書の『おんな二代の記』で「婦人たちが何倍もの警官にとりかこまれ、打つ、蹴る、ひきずりまわすという暴行をうけ、中には二年間入院をよぎなくされたほどの被害者」が出たこと、「警官は単にメーデーそのものが憎かったばかりでなく、『女のくせに』という性別的な偏見のため、男子に対する以上の暴行にかりたてられたよう」だと記しています。他方、新聞を通して赤瀾会の運動は広く知れ渡り、呼応するように、翌年からのメーデーには女性の参加者も目立ったといいます。そして1923年、日本で初めての国際女性デーにあたる「婦人デー」が赤瀾会により開催されました。

ルーツの「婦人デー」に学ぶ

 国際女性デーの始まりは1904年。アメリカの女性労働者たちが待遇改善と女性参政権を求めてニューヨークで大規模なデモやストライキを起こしました。その運動が、第二インターナショナルの女性参政権運動と結びつき、「国際女性デー」とされたのが1910年のこと。クラーラ・ツェトキーンら女性社会主義者が、3月8日を「平和と女性の政治的自由・平等・権利のために世界の女性たちが連帯して立ち上がる日」とするよう提唱しました。

 クラーラ・ツェトキーンらの呼びかけ以降、ヨーロッパでも女性解放運動が急速に広まり、ロシア帝国崩壊へ向かう二月革命のきっかけにもなりました。1917年3月8日、ロシアの首都ペトログラード(当時)で第一次世界大戦の終結を求める女性労働者を中心としたデモが大規模なストライキへと発展しました。デモ当日のうちに10万を超える男性を含む労働者が合流し、数日後には15万を超え、徐々に軍隊までもがニコライ2世に反旗を翻してストライキに加わっていきます。この大きな蜂起が二月革命へとつながり、そして十月革命を経てソビエト社会主義共和国連邦がつくられました。

 こうした女性たちの運動のうねりは大河のように連綿と続き、1975年、ついに国際連合が3月8日を「広く女性の社会参加を呼びかけるための記念日」として正式に制定しました。

 今日、国際女性デーは広く知られるようになった一方で、それを商業主義に絡めとろうとする勢力もあります。 ルーツたる「婦人デー」に多くを学びたいものです。

内灘闘争。米軍射爆場の建設に反対する「主婦」たち(石川県、1953年)