(第3部4回)日本社会党の廃頽と解体

 1995年に米国と日本財界の「合作」によって発表された「新時代の『日本的経営』」以降、日本の安定した雇用は失われるが、すでにそこへ至る10年間に国内産業は大きく空洞化していた。

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 遡ること1985年、米国の対日貿易赤字を解消する目的の「プラザ合意」により、1ドル約240円だった日本円は2年で2倍の1ドル120円まで値上がりした。極端なコストカットを迫られた日本の製造業は、当初、電機産業を中心として人件費が安いアジア諸国へ「系列」とともに進出し、逆輸入した部品を日本国内で組み立てることで乗り切ろうとしたが、90年代に入るとさらに安価な部品を「系列」以外の現地資本から仕入れ、組み立ても現地でおこなうようになる。

 こうして、日本を一度も経由せずに市場に商品が流れる日本製造業の完全なる「グローバル化」と国内産業空洞化の構造がつくられていった。

国内から消えゆく中堅の鉄工所

 その後、米国から押し付けられた「バブル」の崩壊も重なり、国内の民間設備投資は91年を、製造業の就業者数は92年をピークに若干の変動はありながらも急速に下落し続けた。日本の経済成長は終焉し、とうとう94年頃から「就職氷河期」に突入していった。

 時を同じくして、これまで建前上、両国間の「協議」という形をとっていた米国から日本の政治・経済への介入は、94年からは毎秋一方的に送りつけられる新自由主義的規制緩和の命令に変わる。日本側は唯々諾々と応えて実行することになる「年次改革要望書」である。

 当時、米クリントン政権は日本の政権に懐疑心を抱いていた。なぜなら「日米安保破棄」を掲げる社会党の村山富市が自社さ連立政権下で首相を務めていたからだ。

 しかし、村山首相は就任早々に従来の社会党の方針とは180度異なる「自衛隊合憲、日米安保堅持」路線へ廃頽。消費税率を3%から5%への引き上げを容認し、日米包括経済協議で米国から押し付けられた430兆円にも及ぶ公共事業費に200兆円も追加するという自民党顔負けの対米追従政策を展開して従来の支持基盤を失った。当然に社会党は95年5月の地方選、7月の参院選で大敗する。

 96年1月、影響力を失った村山首相の辞任に伴い、自民党の橋本龍太郎が首相となる。かくして自社さ連立ではあるものの、米国待望の自民党政権が復活した。しかも、連立前は政敵であり、対米追従の歯止めだった社会党が実質的に解体したことで、自民党は経済でも軍事でも異次元の米国盲従に踏み出していく。

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