平壌宣言20年 植民地支配責任と民族教育権

 歴史的連続性を備えた「日本」の成立をいつに見るかの論争は横に置くとして、かつて日本(倭国)と朝鮮半島(高句麗・百済・新羅や伽耶)との間では、時々に背後にある中国(唐)も意識されながら優劣が反転した。大国への警戒からくる戦略が双方にあったにせよ、友好的側面も兼ね備えた外交が存在したのだ。

 ところが明治維新以降の日本は、古代から半島には天皇に「朝貢」する属国があったと主張して、朝鮮支配を当然視した。拡張/侵略の野望を抱いて一方的に武力で現状変更を試みる「征韓」を重要課題に位置づけたからだ。実際、朝鮮半島の権益をめぐって日清戦争と日露戦争で争い、とうとう1910年、「韓国併合」で半島を完全支配する。

 そこから度重なる都市空襲と2度の原爆投下の後、天皇制ファシズムが敗北する1945年まで、日本は朝鮮人と朝鮮半島を解放しなかった。

岡まさはる記念資料館にて、原水爆禁止世界大会市従代表団が撮影(2019年8月9日)

 つまり解放は、政治的主権者として日本人民が戦争犯罪者を処罰し、被抑圧民族への公式謝罪と国家補償を履行させた清算ではない。なおかつ、ゆえにGHQ(連合国軍総司令部)が態度を翻せば、またぞろ抑圧へと軌道を変える、根源的でないものだった。

 植民者だった日本人の引揚が優先されて祖国帰還用の船舶が不足しているうちに、南側に駐留した米国の強圧的な占領政策で半島は混乱し、帰国を先送るほかない朝鮮人の「在日」化は固定した。帰国を急ぎつつ、奪われた母国語を子どもたちに教える民族教育は、治安の対象にされた。米国が南の単独選挙を強行した1948年から始まる国家の分断以降については紙幅の都合から詳しく触れられないが、北と南を、「朝鮮」籍と「韓国」籍を選別する日本の対応は周知のとおりであろう。

 先月17日、日朝(朝日)平壌宣言の署名から20年を迎えた。目にした論説は、拉致問題を取り上げるも、両国が不正常な関係にある中で生じた問題という、宣言で確認された捉え方を欠落させていた。

 ましてや拉致問題を理由に挙げたとて民族教育の圧殺は正当化されない。朝鮮学校の存続と発展は解放民族への補償(賠償)として保障するべきだ。それが宣言の精神にもかなう行動であり、そういう積み重ねなしに日本が不正常な関係の解消=戦後清算の入り口に立つことはできない。