(第2回) 「類なき関係」への再編

 日本列島を便利な兵站基地として利用するという米国の目論見によって、日米安全保障条約(以下、「旧条約」)は、朝鮮戦争の最中に結ばれた。

(第1回)「対等な日米関係」どこに? を読む

 敗戦後の日本経済が好況に転じ成長の軌道に乗っていった起点は、1950年の朝鮮戦争の勃発にともなう物資・サービスの日本企業への発注すなわち「朝鮮特需」にあったことは広く知られている。1952年に連合国軍総司令部によって武器生産が公式に許可されると、兵器特需が特需のなかで大きな比重を占めるようになった。そして、景気拡大循環は、1955年の神武景気、1958年の岩戸景気と続いていく。

 1960年に改定される日米安全保障条約(以下、「改定条約」)には、そうした時代背景を反映して、旧条約にない経済協力条項が盛り込まれた。

 第2条に「締約国は、その国際経済政策におけるくい違いを除くことに努め、また、両国の間の経済的協力を促進する」と書かれたそれである。

 そう、駐留条約から軍事同盟を越えて遥かに広範な一体性をもった新たな体制へと日米関係を再編していったのが改定条約と言ってよい。

 新たな体制とは、かつて共和、民主両党の大統領の下で駐日米国大使を務めたマイク・マンスフィールドが、「世界で他に類を見ない、最も重要な2国間関係」と評した日米同盟である。

 安倍内閣の政府答弁書によれば、「日米同盟」又は「日米同盟関係」との表現は、「日米安保体制を基盤として、日米両国がその基本的価値及び利益を共にする国として、安全保障面を始め、政治及び経済の各分野で緊密に協調・協力していく関係を総称するもの」として用いてきているのだとされている。

 実際、1960年11月に民主党ケネディ大統領が当選してケインズ政策が実施されると、同年12月には自民党の池田政権によって所得倍増計画が始められる。
 経済成長を最優先して、財界もまた、米国から導入した技術で合理化を促進した。そして、重化学工業を中心に、年に約10%もの成長率という経験したことのない経済成長が実現していく。

 ただし、それは公害の激化を無視したものだった。三井金属鉱業株式会社の排水によるものとするイタイイタイ病。

 新日本窒素肥料(株)(のちのチッソ(株))の工場排水に起因する水俣病。新潟昭和電工(株)が排水を流した新潟県阿賀野川流域でも同じ症状で住民が苦しめられた。水質だけではない。歯止めのないエネルギー需要の拡大は当然に大気を汚染した。四日市公害をはじめとする産業型公害ぜんそくも全国各地で生じることになっていった。

大気汚染ひろがる京浜工業地帯の中心地

(第3回) 高度成長する「死の商人」 を読む