(第2部1回) 舵を切る福祉国家

 戦後、先進資本主義国は、ソ連を中心とする社会主義世界体制に対抗するために、「福祉国家」政策を迫られた。

 (第1部4回) 「安保繁栄」論の破たん を読む

 70年代初め頃までに、完全雇用・労働政策・社会保障政策をとおして労働者の生存権保障を整えていった。

 ところが、二度のオイルショックによる経済危機=低成長を契機にそれは、新自由主義へと舵を切り始めた。

 81年に発足した米国のレーガン政権は、財政支出の削減、減税、規制改革で景気の浮揚をはかるべき、とマネタリストらと唱えた。福祉国家は、経済社会に過度に介入する「大きな政府」で、活力をそぐ、と批判したのだ。すでに79年にサッチャーを首班とする保守党政権が誕生していた英国にも共通する動きだ。

 なぜか? 理由は、世界で最初に新自由主義政策を執ったチリのピノチェト政権を見れば、知ることができよう。

 遡ること1953年、シカゴ学派の南米介入計画が始まる。費用を米国政府と米国資本系財団が賄って、チリ・カトリック大学の学生をシカゴ大学経済学部へ受入れ、新自由主義の学説を叩きこみ帰国させた。やがてプログラムはアルゼンチン、ブラジルにも拡大。70年代初頭、主にカトリック大学で学んだ後、シカゴ大学の大学院で履修し帰国した「シカゴ・ボーイズ」は累計100人を超えたという。

 73年9月11日、チリ陸軍司令長官ピノチェトと米軍は、クーデターによって社会主義アジェンデ政権を転覆。ピノチェトを大統領に樹立した軍事独裁政権は、公営企業体の民営化(=私有化)、福祉等の国家財政支出の削減、規制緩和を経済政策の三本の柱にする。この顧問団を務めたのがシカゴ・ボーイズである。そして75年に新自由主義の導師フリードマンがチリに呼び寄せられると、税の引き下げや自由貿易など、いっそうドラスティックな「ショック療法」も推し進めた。すると、急速に外資が流入し、一時的な活況が起きた。ガラスと人工石の眩い建設ラッシュ。「チリの奇跡」。

 ただし、新自由主義は平等に奇跡をもたらさない。インフレはアジェンデ政権の二倍にも膨れ上がり、失業率は30%に達し、格差は拡大した。87年、貧困線以下の人口は実に45%を占めた。つまり、「奇跡」の内実は、資本と富裕層の懐に積み増した「富」と、犠牲になった労働者の生活である。

 だから、歩調を合わせて新自由主義を適用したのは、経済界と結びついた各国の保守政権なのだ。

 82年に政権につく中曽根以降、米国に追随する日本の政策にもそれは顕著に現れる。財界の「階級的」利益を優先する政治「私物化」として。

(第2部2回) 故 中曽根康弘の「功績」 を読む