(第2部2回) 故 中曽根康弘の「功績」

(第2部2回) 故 中曽根康弘の「功績」

1981年、中曽根康弘を行政管理庁長官とする鈴木善幸内閣は「増税なき財政再建」を掲げ、「第二次臨時行政調査会」(以下、第二臨調と記す)を設置し、新自由主義政策への地ならしを始めた。

82年に中曽根が首相となると、「規制緩和」と「民営化」により、戦後日本の政治と経済を米国との協調体制に改造するための総決算「中曽根民活」を強行した。

健保の本人負担はじまる(1984年)

 第二臨調は経団連名誉会長の土光敏夫を会長とし、「活力ある福祉社会の建設」と「国際社会に対する積極的貢献」を目標に掲げることが第一次答申で提示され、第三次の基本答申で確認された。

「活力ある福祉社会の建設」を実現するために、生存権の国家責任を放棄し、「自助・自立」「民間活力」を強調したのである。83年までに5度にわたってまとめた答申は当然、規制緩和による民間活力を導入して、公的部門を縮小する行政改革が中身となっている。

 第一次答申は「行政各部門のみならず、国民、企業、団体それぞれに対しても、高度成長期以来の惰性を断ち切って行政への依存体質を脱却し、活力ある我が国社会を築き上げるための決意と協力を期待したい」と明記。社会保障や文教関係費が大きな支出拡大要因だとして、老人医療無料制の廃止をはじめとする支出削減等と財政再建の推進を提言したのだ。

つまり「受益者」負担増、裏を返せば応分の負担から逃れようとする富裕層と財界の要求を端的に表現したものだ。これにより75年頃より政府・財界が口にし始めた「福祉見直し」が一層徹底されることになった。時代は明確に社会保障水準の縮小再編へ突入した。

 第二次答申以降も、許認可権の整理・合理化や三公社(日本国有鉄道、日本電信電話公社、日本専売公社)の分割・民営化、年金保険の一元化、医療保障の合理化、医療費の適正化等が提言された。

答申をカサに着た中曽根内閣は、三公社民営化や特殊法人等の整理合理化、内部部局の設置等を法律事項から政令事項化、許認可手続の整理合理化、総務庁の設置などを実施した。

 ここでは、生活保護制度について見ておこう。81年には123号通知が出され、急速に申請抑制が進み、保護率が低下。83年には扶助基準が物価上昇分のみに改定される。84年には扶助基準の算定方式が格差縮小方式から水準均衡方式へと変えられた。

 もう一方の「国際社会に対する積極的貢献」はどうか?  中曽根政権のそれは85年、防衛費GNP1%枠を撤廃し、アジア近隣諸国に脅威を与えるものでしかなかった。

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