(第2部3回) 容赦ない米国の報復

 新自由主義が導入されていった80年代の日本経済は、ところが社会保障の縮小再編を必要とするような低成長にはなかった。テレビ・オーディオに加えて半導体の技術で国際競争力が高まったことから、むしろ「集中豪雨的」に対米輸出が増え、世界最大の貿易黒字国となった。

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 一方、米国には国内企業の低い競争力による貿易赤字と、軍事費による財政赤字の「双子の赤字」が定着。レーガン政権は自国の構造欠陥をそのままに、解決策を対外批判にすり替えた。

 83年、キャタピラー・トラクター社のリー・モーガン会長は、米国企業が日本企業に負ける原因をドル高円安とする「ソロモン・レポート」を作成し、政府・議会関係者に配布、世論形成を図った。これが同年11月のレーガン大統領訪日に際して、米国側が持ち出した要求の基礎になっている。

 日本市場へのアクセス、市場開放、円ドル、資本市場、円の国際化の問題等について日米間で緊密に協議・協力する意向を中曽根首相が合意すると、竹下蔵相とマクナマール財務副長官が会談し、共同新聞発表がおこなわれ、「日米共同円・ドルレート、金融・資本市場問題特別会合」(日米・円ドル委員会)の設置が表明された。先物為替取引の内需原則の撤廃など、8項目にわたる金融自由化を84年4月1日から実行に移すことを発表した。

 しかし米国エスタブリッシュメントは日本への批判の手を緩めることはなかった。

 85年3月28日、米上院本会議は、大統領に対日報復措置の実施を求める決議を全会一致で可決した。これは、日本の「不公正な貿易慣行」に対抗するため、通商法301条(74年制定)に基づき、輸入制限を含む「適当で可能なあらゆる対抗措置」を取ることを要請したものだ。3月末の報道で、5月の日米首脳会談(ボン・サミット期間中)で中曽根に対し「日本市場が開かれなければ、議会による対日報復の保護主義的な立法を阻止できない」とレーガン大統領が直接警告する方針が明らかになっている。

靖国参拝する中曽根氏(1985年)

 日本政府は4月3日、「日米両国関係と世界貿易のために法律として成立しないことを強く希望する」との見解を発表したものの、同日、米上院財政委員会は、議会決議に法的拘束力を持たせるための対日報復法案を可決。5月のボン・サミットで日本の市場開放が共同宣言に書き込まれる。

 そして9月22日のG5(米・英・西独・仏・日)蔵相・中央銀行総裁会談で「プラザ合意」が結ばれた。議論は5時間に及んだという。

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