(第3部1回)属国化する経済と軍事

 バブル崩壊から「失われた〇〇年」と語られ続け、現在なお日本経済は失われ続けている。「なぜ失われたのか?」

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 疑問に対し、政府もメディアも盛んに「デフレ」「少子高齢化」「社会保障費」と喧宣する。しかし、それらは失われた結果発生した事態である。

 この部では「日米同盟」によって失われた日本経済の90年代を研究していく。

 85年にソ連共産党のゴルバチョフ書記長(当時)が硬直した体制の改革「ペレストロイカ」を提唱した。その流れは89年2月にソ連構成国であったポーランドにおける民主化を決定づけた「円卓会議」、その後の一連の東欧民主化革命へと進展した。世界を核戦争の直前まで追い詰めた米ソ冷戦は89年12月に終結し、91年12月には超大国ソ連が崩壊した。

 これにより米国にとっての軍事的脅威は消失した。しかし経済的脅威は残されていた。冷戦下に「反共の防波堤」として一定の経済成長を許容してきた「同盟国」日本である。

冷戦の象徴「ベルリンの壁」崩壊 1989年

 89年に三菱地所がニューヨークを象徴する建物「ロックフェラーセンター」を、ソニーは名門映画会社「コロンビア・ピクチャーズ」を、90年には松下電器(当時)は「MCA(現ユニバーサル・スタジオ)」を買収。91年には米国における貿易赤字に占める日本の割合は65%にまで拡大した。同年、米シカゴ外交評議会が「米国にとって死活的脅威はなにか」と問うた世論調査では60%の市民と63%の指導者層が「日本の経済力」と回答している。

 このような米国の危機感を背景に日米関係は別次元に突入する。それはもはや「日米同盟」などと呼べるものではなく、米国による日本経済と軍事の「属国化」「植民地化」といえるものであった。

 89年7月のパリ郊外でおこなわれたサミットにおいて、米国ブッシュ(父)大統領と宇野宗佑首相(スキャンダルにより69日間で失脚)が「日米構造協議」をおこなう合意をした。同年9月に第1回会合がもたれた「協議」は、90年6月に最終報告がまとめられ、米国の「命令」を日本が実行することとなる。

 当時経常黒字であった日本に対して、米国は黒字幅の削減を迫り、91~2000年の間に430兆円(最終的に630兆円にまで膨らんだ)にもおよぶ国内公共投資計画を約束させた。必要性ではなく使い切る金額がおしつけられたのだ。日本が抱える膨大な借金と財政破綻の原点はここにある。社会保障費支出を渋る一方で、不要不急の大型公共事業を優先する歴代政権の体質が決定づけられた。

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